リウマチ17年目の過ごしかた。

リウマチになって17年、30代の記録です。

17年の経過を簡単に⑤「エンブレルへの耐性??生活の変化と体調不良」

前回は、レミケードの点滴からエンブレルの自己注射に変えた理由や、エンブレルに変えてよかった点などについてを書きました。

今回は、12年使い、とても身体に合っていたエンブレルをなぜ現在使っていないのか?その理由について書いていきたいと思います。

 

レミケードではアレルギー反応が出てしまう私にとって、病院で1日かかる点滴の治療に比べ、アレルギー反応も出ず自分で打つことのできるエンブレルは、とても便利で身体に合っていた薬でした。

調子の良い時には全く元気な人のように過ごすことも出来ました。

走ることも、仕事をすることも、趣味のピアノを弾くことも、手を使った細かい作業をすることも、前触れなく突然やってくる手首、肩、膝を中心とした腫れに見舞われさえしなければ、多くの時間をごくごく普通の20代のように過ごすことが出来ました。(ただ、あくまで元々寝たきりになることを覚悟していた私にとっての元気や普通であるので、持病のない方とは普通という基準にズレがあると思います)

 

そうやって突然やってくる腫れや痛みに怯えつつも、多くの時間を自分としては十分に健康だと思える状態で過ごせていた私にとって、最も恐れていた事態は自分にとっての奇跡の薬であるエンブレルが効かなくなることでした。

いつもそんなことを考えていてはそれこそ身体に悪いだろうと思いつつ、それでも心の底でいつもどこかで考えてしまい恐れてしまう、、、自分にとっては一生付き合っていく悩みなのだろうと感じていました。

同時に、不安ではあるものの、”でもそんなこと起こらないだろう。こんなに良くなって、本当に痛かった時の辛さや経験は昔々の思い出という感じになっているのに、また悪くなるなんて想像もできない。”といった楽観的な気持ちもあり、どちらかというとそちらの方が真実に違いないと信じていました。

 

それに、もしそんなことになったら自分はどんなにショックを受けるだろう、あの痛みにもう一度耐えるなんてとても出来ると思えない、、、。

それにそうなったら、再び乗り越えようと頑張れるだろうか?

一度乗り越えたと思ったのにダメだった経験をして、希望を持ち続けられるのか?

そういった、心の健康面への不安もかなり大きかったので、冗談でもそんなことは起こって欲しくないと切実に願い、きっとそうはならない!と信じていました。

 

その頃の自分はエンブレル(TNF-α阻害薬)は耐性がついてしまい、だんだんと効かなくなる可能性のある薬だという情報を知らずにいました。

 

そして、その恐れていた時は想像していたように突然来るのではなく、じわじわとやってきました。

 

今から数年前、エンブレルを使って10年以上が経とうとしていた30代も半ばに近づいてきた頃、変化は始まりました。

(※注:医師にはっきりと言われた訳では無いので、それが耐性がついてしまった為なのかは、はっきりとはわからないのですが、ちょうど薬の耐性がついてしまうといわれる10年を過ぎた頃から起こった変化であったため、関連があるのではないかと自分自身で考えており、その予想に基づきつつ記述していきます。)

 

体感として何となく効きが悪い?何となく前より効いていないのでは?と感じることが多くなりました。

 

具体的には、今まで痛くなったことの無かった肘が痛くなり、その痛みが年単位で取れず日常が不自由になったり、手首の痛みにしても、痛みの発現の間隔が短くなったり、じわじわ常に痛いような状態になったり、注射を打てば少し楽になっていたような軽めの痛みもそれ以前のようにすっきりと効いた!というような変化が起こらない、、それまでとは何か違うと感じることが多くなりました。

何だか効きが悪いな、、、と感じる程度の変化は、積み重なるうちに、確実に日常生活を不自由にしていきました。

どれだけエンブレルに助けられていたのかを思い知りました。

 

ただ、あまりにじわじわと変化が起こった為、”あれ?困ったな、、、” ”あれが出来ない、、これも不自由だ、、、”というような具体的な困り感はあっても、”まさか、、、薬が効かなくなってしまったのでは!?”というような最初に想像していた衝撃やショックはほとんど感じませんでした。

ちょうど生活のスタイルが大きく変わった時でもあったので、家事で手を使いすぎたんだな、、、薬が追いつかないくらいに使ってしまったんだな、、のような気持ちもありました。

 

実際に、生活が変わってそれまで以上に色々なことに気を配るようになった(=神経を使う場面が増えた)ことも体調に変化をもたらしていたと思います。

ただそれは自分で選んだ大切なことだったので、そのことで悪くなるのは仕方がないし、うまく調節しながら乗り越えなければなと感じていました。

 

さらに、その変化に合わせて、お金を節約したい思いが強くなり、エンブレルのジェネリックのような薬”エタネルセプトBS”に変えていました。

薬を変えた時期と体調が変化した時期が少しかぶってはいるのですが、もともとTNF-α阻害薬自体の効果が私の身体に出づらくなったタイミングだったのかもしれず、薬の変更と体調の変化に因果関係があったのかは未知です。

ただ金銭面がかなり楽になったことだけは事実でした。

(薬を変更する際、主治医の先生に全く同じ効果があるとは保証はできないという説明は受けていました。それでも生活と金銭面の両立を優先した結果、薬を変えたという流れがあります。)

 

生活に不自由が出てきて、何とかしたいと思った私は、鍼灸の治療を受けたり、漢方を処方してもらったり、何か打開策がないかと思いつく治療を増やしてみていました。

鍼灸はとても効いて、当日から数日間は肘の痛みもかなり楽になるのですが、しばらくすると元に戻ってしまうのが私にとっての実感でした。

漢方については効果が出るのに時間のかかる薬であるので、その日に困りごとがあって悩み続けていたその時は、ゆっくり出てくる効果を待てなかったというのが当時の思いです。

 

この頃、再びリウマチや薬のことについて調べるようになったことで、TNF-α阻害薬には耐性がついてしまうことがあるということを知りました。

しかもちょうど耐性がついてしまうとされる年月と、私が使用していた期間が近かったため、まさか、、、??という思いが出てきて、本格的に不安になり始めていました。

 

もっと根本的に良くならないと日常が辛い、、という中、早く何とかしたいという思いが強くなっていきました。

その頃、引っ越した後も主治医を変えず県外の病院に通っていたのですが、体調も良くなくなって通うのも大変になってきていました。そんな時、近くの病院に良い先生がいらっしゃるということを教えていただき、何とか打開策を得たいという気持ちが高まり転院をすることを決めました。

 

(本当に長い間お世話になったクリニックだったので、焦りの中転院を決めてしまい申し訳ない思いも残っています。)

 

転院した総合病院の先生はとても厳しい方でした。

ですが、その厳しさに救われることになります。

 

実は、リウマチの治療薬の基本である飲み薬”MTX”(私はリウマトレックスを飲んでいたので以降リウマトレックスと書きます)ですが、発症以後個人的に効果を感じたことがなく、効果は感じないのに、胃の不快感や吐き気というか違和感、重だるさというような副作用だけはしっかり感じてしまい、本当にカプセルを見るだけで胸焼けがするという状態でした。

それ故に、体調が悪くなってきていてもどうしても嫌で、飲んだり飲まなかったり(飲めなかったと言いたいところですが)ときちんと毎週服用することを守れずにいました。

 

そんな自分ですら服用をきっちり守るようになったのは、新しい先生が非常に厳しかったおかげでした。

あの先生の指示を無視するなんてあり得ないことだ、、、という少なくない恐怖の中で、全く効果を信じられなかった胃腸をとてつもなく不快にする薬を毎週毎週、リウマチを発症した最初の1年目くらいの真面目さできっちり服用しました。

食欲は落ち、常に胃は不快、、、少し調子がマシになった頃には次の服用の日がやってくる。

本当に辛い、、、!!!と思いながらも、必死に半年ほど続けた結果。

 

 

体調が以前のように回復しました。

 

 

常に痛いところがあって、人の手を借りなければできないことが色々と出てきて、家事も仕事も趣味も思うようにできなくなって辛さを感じていた日常に平穏が戻りました。

 

リウマチを発症した頃、全く効果が感じられず、自分には合わないのだと思い込んでいたリウマトレックスに救われる時が来ようとは思っていませんでした。

 

実は転院前のクリニックの先生もちゃんと飲むようおっしゃっていたのですが、経験からどうせ効かないと思っている上に、副作用への拒否感からその時はどうしても飲み続けられませんでした。

またエンブレルが身体にとても合っていたからか、ほぼ10年間の間リウマトレックスをちゃんと服用しなくても十分に効果が得られていると自分で思い込んでしまっていました。

今思えばきちんと飲んでいればもっと数値が下がっていたり、突然悪くなるという症状も少なくなっていたのかもしれません。

(言いつけを守らない不良患者で申し訳なく思います。ただ本当に拒否したくなる辛い副作用が私には出ていたので、その自分を頭ごなしに否定してしまいたくない気持ちもあります。)

 

そうして、またしばらく痛みのほとんどない生活が続きました。

長引いた炎症の影響で、それ以前と全く同じという訳には中々いかないのですが、それでも本当に楽になった、薬が効いて体調が落ち着いたと感じました。

料理もできて、人の手を借りなくても一通りの生活ができて、仕事にも行けるようになりました。

 

本当に、もう戻らないのでは?という不安もよぎっていたので、ここまで良くなったことに心から感謝しながら、できるように戻った数々のことに喜びを感じていました。

 

その頃私は30代も半ば。

新婚でした。

 

すっかり体調が良くなってきて、次の段階の希望を持ち始めていました。

具体的にいえば、妊娠、出産への希望です。

ただ、それにはせっかく効果があったリウマトレックスを辞めなければならない。

 

次回は、当初のイメージと変わって自身の健康をしっかり支えてくれた、リウマトレックスを辞めることを主治医に相談した話。

そこからどうなったかについて、まとめていきたいと思います。

 

もう大分現在に近づいてきているので、自己紹介のかわりに書き始めたこの経過を簡単に(簡単と言いつつ毎回大変長くなっています)の一連の話も区切りになると思います。

以降は様々なトピックに分けて投稿していきたいなと思っています。

 

それでは、今回も長文にお付き合いいただきありがとうございました。

 

※リウマチは、本当に患者さんの数だけ症状のあるような多様な症状の病気だと感じます。一体験談として、こんな人もいるんだという程度に読んでいただけたら、その上で何かしら参考になるようなことが少しでもあれば幸いです。

 

17年の経過を簡単に④「エンブレルへの切り替え」

前回の記事では、レミケードによって生活がどのように変わったのか?

その変化を踏まえて高い治療費について思うところを書きました。

 

今回の記事では、順調に使用していたレミケードをエンブレルに切り替えた時の話を中心に書いていきたいと思います。

 

2005年の11月から使い始めたレミケードですが、それから3年も経たない2008年8月にエンブレルへと切り替えることになりました。

 

外来治療センターでレミケードを点滴してもらうと直後から体調がとても良くなって、しばらくとても元気に過ごすことができる。

でも2、3週間経つと体が重く痛くなってきて、重いものが持てなくなったりと日常生活に少し不便が出てくる。

でもその頃にはまた次の点滴の日になるので、また受けに行って元気になって、、と、この頃はそんな体調の波の繰り返し中で過ごしていました。体調が悪い時でも少し不便が出てくるという程度で、日常生活に大きな差し支えが出るようなことはなかったので、それで十分満足して生活していました。

 

その時の私の大まかな状況としては、大学を卒業してまた新たな土地で一人暮らしをしていました。(得意分野が活かせると感じた業種の専門学校に通っていました)

(就職率の低い時代にリウマチを抱えながらも就活はしたのですが、会社員に必要とされる素養への力不足とハンデの大きさを痛感し、何か具体的に手に職と言えるような強みを手にしようとの判断でした)

それに伴って主治医も変わりました。変わった主治医もまたリウマチの名医として知られていた医師でした。(大学病院からクリニックへの転院でした)

 

そちらの病院でもしばらくの間は、変わらずにリウマトレックスを服用しながらレミケードの点滴を受けていました。

 

そんなある時、転院して4ヶ月経った頃の夏休み中に仲間と力を入れて取り組んでいたことに熱中しすぎて無理をしてしまったことをきっかけに、肩や手首など複数の関節にひどい痛みが出てしまい、痛みのコントロールがうまくできなくなってしまうという状況になりました。

肩や手首の炎症で自分ひとりでは着替えが出来ず髪も洗えないという状態が続き、2週間ほどは一人暮らしを踏ん張って続けながら課題も何とか出来ることをする形で続けたのですが、痛みは一向に引かず無理をすればするほど悪化する状況になっていたため、しばらく休みが続くタイミングだったこともあり、熱中していた課題はひとり抜ける形で途中で諦め実家に帰って静かに過ごすことになりました。

身の回りのことに不自由が出る程度に悪化した関節の痛みは発症から1ヶ月ほど続きましたが、夏休みが明けた頃には学校へ普通に戻れるようになりました。

ただ、この間に一緒に課題を行なっていた仲間にも迷惑をかけたり、アルバイトも代打で仲間に出てもらったり、もちろん両親にも面倒を見てもらったりなど色々と周りに負担をかけたことを実感していました。

大学の頃にやっていたアルバイトではリウマチを理由に休んだことは一度もなく、リウマチを理由に授業を休んだことも無かったので、大学よりも専門学校のほうがスケジュールが詰まっているとはいえ課題を途中で諦めることになったということ、周りに迷惑をかけたということが何となくショックでした。

(突然こんなに腫れて何もできなくなるということが起こるようでは、先々とても恐ろしいと、手の周りへの突然やってきては長く続く痛みに不安を覚えた最初の出来事でした。)

 

漠然と何かもっといい治療を心の奥の方で求めはじめていた、そんな時に主治医の先生にエンブレルへの切り替えを提案していただきました。

エンブレルは週に1回から2回、腹部や太腿に自分で注射を打つ(自己注射)生物学的製剤です。

それ以前にもエンブレルという新しい薬があるということは先生から聞いていたのですが、自己注射という点がどうしても受け入れられず、やってみようという気持ちにはならずにいました。

こちらの方がよく効くとか、症状が改善するとかそういうことではないのですが(本当に人それぞれ個人差もあるので)レミケードに対してのエンブレルの利点として先生がおっしゃっていたのは、投与のタイミングが頻繁である分体調に波が出にくいということと、自分で打てれば治療にかかる時間が圧倒的に短くて済むということの2点でした。

 

当時レミケードにアレルギーが出ていて1日がかりで点滴を受けていたので、学生のうちに替えておければ社会人になった時に困らずに済むということもアドバイスいただきました。

 

リウマチで社会を生きることに少なからず不安を覚えたタイミングだったこともあり、それまでレミケードの治療で体調に波があることは仕方がないことだと受容していたのですが、よりよくする挑戦をしてもいいのではとこの時思えました。

(このより良くはあくまで”私にとって”のより良くです。人それぞれのより良い治療があると思いますので、あくまで一事例として読んでいただければと思います。)

 

※ちなみに、エンブレルとレミケードはTNF-αというサイトカインを標的として作用する「TNF阻害薬」という同じ種類の生物学的製剤のため、レミケードがとても効いていたのでエンブレルも効果がある可能性が高いという説明を受けていました。

 

※また製造方法に違いがあるため、それまでレミケードの点滴で悩まされていたアレルギー反応の心配も少ないという個人的なメリットもありました。

レミケードは製造の過程でマウスを使用しており、そのため薬剤に対してのアレルギー反応が出やすく、対してエンブレルはヒトのタンパク質由来の薬剤のためアレルギー反応が起こりにくいそうです。

 

 

そういった経緯で、エンブレルに切り替えることになります。

 

近くの大きな病院でCTなど、肺や全身の検査を受けて状態を確認後、エンブレルが始まりました。

最初の数回は病院にて打ってもらいました。

打ってもらう体制から自己注射に切り替える時には、看護師さんが針のないダミーのシリンジで何度も針を入れる向きなどを丁寧に説明してくれ、やって見せてくれ、練習をさせてくれ、最初の一回は見守られながら打つという万全のサポートを受けながら、針の痛みに緊張しながらも終えることができ、その後は日常のルーティンと自然となっていきました。

 

ちなみに私が始めた頃にはペンタイプが無かったのか、THE注射器!の見た目のシリンジタイプを使っていました。数年してペンタイプに切り替えましたが、シリンジタイプはお腹に針を刺す瞬間の緊張感はすこぶるあれど、自分で注入するスピードを調節できるので薬液の入っていく痛みはほぼないという利点がありました。

対してペンタイプは手が痛くてもグッと両手で押し込めたり、割と大雑把にこの辺りで!と押し付けてボタンを押せば完了するという楽さ、廃棄時の安全性の高さなどの利便性の反面、ボタンを押した瞬間に一気に薬液が入ってくる時には何ともいえない痛みがあり一長一短でした。(個人的にはシリンジのチクンという針の痛みよりも、若干悶えるような薬液が流れ込むペンタイプの痛みの方が苦手でした)

 

 

エンブレルに切り替え後は、本当にレミケードの時のような大きな体調の波が無くなった分安定していると感じることが多くなりました。

体調が悪くなると注射の頻度を増やしたり、逆に良くなれば間隔を開けたりといった調整もその時々によって対応していただき、多くの時間をいたって元気に過ごすことが出来ました。

 

ただ、突然ひとつの関節(手首や肩のことが多いです)が腫れ上がり数ヶ月腫れっぱなし、というような現象は薬の種類には関係が無かったようで、それ以降も何度もやってきては人生の色々な場面の難易度を上げています。

 

エンブレルは始めてから12年間使い続けました。

(正確には最後の2、3年間はエタネルセプトBSというジェネリックの薬剤を使いました)

 

現在はアクテムラという違うタイプの生物学製剤に切り替えて治療しています。

 

そこに至った経緯などを次回は書いていきたいと思います。

今回も、長くなってしまいました。

長文にお付き合いいただきありがとうございました!

 

※リウマチは、本当に患者さんの数だけ症状のあるような多様な症状の病気だと感じます。一体験談として、こんな人もいるんだという程度に読んでいただけたら、その上で何かしら参考になるようなことが少しでもあれば幸いです。

 

 

最後に、個人的な思い出をひとつ。

エンブレルを打ち始めた時、確か週2回のペースで打ってもらっていたのですが、ある時ちょうどクリニックの休診日に当たってしまった時がありました。休みにも関わらず、主治医の先生が普段着でやって来て入り口を開けてくれエンブレルのシリンジを「効きますように、効きますように」と両手で挟んで拝んでから打ってくれました。

(特に効いて欲しい時には真似をして拝んで注射するようになりました。)

 

提案はしても無理強いはせず、挑戦したいことはやってみましょうと尊重してくれる先生でした。当たり前のように、先生のその対応を受けていましたが、実はそれは医師としてきっとリスクもあり、なかなか実行できるものではない自信と勇気のある行動だったのだと今になって思います。

カルテの中に、診察の中で話した個人的なうれしい出来事までメモしてくれました。

その先生はすでにこの世を去ってしまったのですが、貴重な休日に嫌な顔ひとつせずに良くなりますようにとおまじないまでかけてくれた様子を思い出し、リウマチに挫けそうになっても、助けられた感謝を糧に諦めずに治療をして前向きに生きたいと思うのでした。

 

継続が本当に苦手でブログが本当に3日坊主になってしまいそうですが、治療の色々、生活の色々を書き留めておくことで、いつか誰かの参考になる時がくるかもしれない!と亀の歩みでもコツコツ続けていけるようにと思います。

17年の経過を簡単に③「レミケードの感想」(治療費について思うことを添えて)

今回は、生物学的製剤レミケードを使いはじめて感じたこと、

体調や生活がどう変わったのか、金銭面について思うこと、また点滴で受けるという点で個人的に良かったところと不便だったところなどについて書いていきたいと思います。

 

前回の投稿では、診断後から半年間の間に症状が急速に悪化していく中、飲み薬がほとんど効かず、日本では治験が終わったばかりだったレミケードを即断して始める事になり一晩にして奇跡のように回復した、、、!という流れを語りました。

 

思い返せば、本当にレミケードの効果は劇的で怖いほどの回復でした。

だからといって薬に対しての恐ろしさは全くなく、本当に日々の辛さが激減した事、できなくなっていたことができるようになった事、ひとつひとつに感動する日々でした。

歩くペースがとても速くなりました!(階段以外の平坦な道は、ほぼ病気になる前と同じ速度で歩けるくらいの回復でした)

手についた水滴を、パッパッと払う仕草が数ヶ月ぶりにできるようになりました!(指をはじく仕草も手を振る仕草も、指、手の甲、手首の炎症で全くできなくなっており、水が滴る状態の手をゆっくりと動かして、布に押し当てて拭く、という工程が通常になっていたのでこの変化には感動しました。)

燃えるような体のだるさが楽になりました。

フキンを軽く絞ることもできるようになりました。

眠りも深くなったと思います。

 

以上の変化は点滴をしてすぐに効果がありました。

 

さらに、

点滴の回数を重ねるごとに症状はどんどん良くなっていきました。

レミケードをはじめたのが大学2年の11月だったのですが、大学3年の春(5月)には食品の店頭販売のアルバイトをはじめるまでに回復していました。

立ちっぱなしの仕事で、冷たい水での洗い物や重い荷物を運ぶこともありました。シフトも週5日入ることもある割とハードなスケジュールでしたが、リウマチということを話さずに健康を装ったまま、大学を卒業するギリギリまで勤めることができました。

 

友人と遊ぶ機会も増えました。

(大学の友人達はリウマチのことを重く捉えすぎず、たまにはネタにしてくれる位のテンションで付き合ってくれました。それでいて重い荷物などを運ぶ時には手伝ってくれたり、本当に心情面でも生活面でも、日常の色々な面で助けられました。感謝しています。)

 

アルバイトをはじめることができたのは本当にうれしかったです。

このまま治療でお金を使う一方になってしまうのか、、という不安や、両親にお金をたくさん使わせてしまった、、という申し訳ない思いが、働けた!!という事実にだいぶ救われた気がしました。心が軽やかになりました。

多少無理をしてでも、たくさんお金を稼ぎたい!と授業のない時間の多くをバイトに費やしました。

また体調の良さが続いたおかげで、アルバイト先の方々に病気のことを隠し通すことができ、私が病気になった経過を知らない仲間たちの中で健康な大学生に戻った気分を味わうことができました。それは自分にとってとてもうれしいことでした。

 

 

このように、体調面でも生活面でも、レミケードを受けてから全てが激変しました。

 

自分にとっては良いことばかりでしたが、大変だったことをあげると、やはりそれは金銭面でした。負担してくれていた両親には感謝ばかりです。(その思いは社会人になってから一層深まりました。)

治療を始めるにあたってかかった金額は入院、検査もろもろで20万以上かかりました。

点滴の度にかかった具体的な金額も覚えている金額も書いておこうと思ったのですが、ずいぶん前のことでうろ覚えのため今回は割愛します。

とにかく高額だったので少しでも足しにしようと、動けるようになった体でとにかくアルバイトに励みました。(今思えば、この時は調子に乗りすぎていた気がします。本当はそんなに無理をしてはいけないと思うので、くれぐれも参考にはされないようお願いします。)

 

金銭面に関しては、この当時に月々かかっていた金額はもちろんですが、この時点から今日までずっと高い治療費がかかり続けていること、その事がとても大変に感じます。

ライフステージが変わっても、ずっとついてくる治療費はその時々で悩みのタネであり続けています。

学生時代は両親の助けがあり、入院費もレミケードを始めるにあたってかかる色々な費用も自分で払っていた訳ではない為、金額に重みを感じながらも自分で工面するようになってからと比べると苦しさはやはり軽かったのだと思います。

(アルバイトで貯めたお金も、両親は自分の貯金として使わせてくれ、直接その時のレミケード代としては結局のところ使いませんでした。)

ただ、当時の必要のなかったはずのお金を使わせてしまったという苦しさも、それはそれで苦しいものだったので、自分で支払えるようになってからは気持ちはだいぶ楽になりました。それでも社会人として働き始めた頃、毎月給料の3分の1くらいが治療費になっていく様子に治療費の重みを痛感しました。

治療にかかるお金は治療に使っているので、ただ消えていく訳ではなく、無理に取られている訳ではなく、自分自身の健康を買っているようなものです。

何よりも必要なところにお金を使っているはずなのに、その負担の大きさは生活がうまくいかない時ほど重くのしかかるので、未だに悩みはつきまといます。

これがなくては元気に過ごすことができなかったという、本当に自分にとっては何より必要な費用であることは自覚しているつもりなのに、元気なことに慣れてくれば来るほど、まるでそのお金が消えていっているかのような思いになってしまうことがあり、自分だけが変に苦労をしているような気になってしまうことさえあります。

今から30年ほど前の祖母がリウマチに苦しんでいた時代には、痛みを劇的に抑える薬はなく本当に何年も痛みに苦しんでいたのだということ。

初回のレミケードのための入院時に同室の重い疾患の患者さんに、治る薬があることがうらやましいという気持ちを聞いたこと。

そういったことを思い出し、治療法のある時代に生まれて、治療を受ける機会に恵まれたことに感謝をしたいと思いながら、それでも常に自分にとってはとても大金の治療費が必要であり続けることには負担を感じ、、、必要性は感じつつも、その負担は非常に大きいというのが現実です。

 

※ちなみにレミケードは、現在使っているアクテムラ、以前使っていた、エンブレル、エタネルセプトBSと比べてもとても高価でした。

 

 

最後に、点滴での投与を受けていたレミケードと、現在行っている自己注射との体感の違いについて書いておこうと思います。

治療を受ける上で個人的に感じたメリットデメリット簡単にまとめます。

 

メリット

・人に処置をしてもらうので安心で怖くない。(あくまで自己注射が怖い私の感想です。)

・毎週痛い思いをすることがない。(自己注射は種類によっては毎週、もしくは週2回のこともあるので)

 

デメリット

・点滴のスパンが長いので薬が切れてくる。(点滴前にはだいぶ痛みがありました)

・丸一日かかるので、予定の確保が必要。

・ほぼ半日の座りっぱなしが辛い。(私の場合はアレルギーが出たため通常の3倍ほどの時間がかかっていました)

 

このような感想です。

 

エンブレル、エタネルセプトを使っていたときは、注射がとても痛く感じて注射の日は朝から憂鬱だったので、誰かに打ってもらえる点滴の時は良かったなあ、、、と感じたこともありました。

ただ毎週注射を打つ自己注射のほうが体調が一定に保てたり、打つのに必要な時間は一回5分もかからないのでそれぞれに一長一短があるなと感じます。

 

生物学的製剤については、長くTNF阻害薬(レミケード、エンブレル、エタネルセプト)を使用していましたが、現在はインターロイキン6阻害薬(アクテムラ) を使用しています。

効果の出方、体感にとても違いがあったのでその点についても体験をまとめておきたいと思います。

(病気と長く付き合ってきた中で、体験してきたことはできる限り書いておきたいと思います。)

 

少しでも多くの情報を探している方の一参考になれば幸いです。

ただ、繰り返しになりますが、リウマチは人それぞれに本当に症状の出かたや薬の効きかた、色々な面が違うと感じます。

関節リウマチという病名だけではくくれないだろうと感じているので、あくまで一つの例として読んでいただければと思います。

 

 

以上が、レミケードを使ってみての感想でした。

 

このレミケードの治療は3年弱続けたところで、エンブレルに切り替えることになります。

エンブレルは、その後10年ほど使い続けました。

次回はエンブレルに切り替えた理由、使ってみて変わったところなどを書いていきたいと思います。

 

長文にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

17年の経過を簡単に②「投薬治療開始から生物学的製剤を始めるまで」

前回の記事では、発症から診断が着くまでの経緯を語りました。

 

今回は治療が始まって、どのような経過をたどって、2005年時点で日本ではまだ新薬だった生物学的製剤(レミケード:正式名称インフリキシマブ)を使い始めたのか、

それが私にどのように効いたのかを書いていきたいと思います。

 

いざ関節リウマチだろうという診断がついた時、謎の症状に悩み何度も受診を繰り返していた自分としては、心配や不安よりも何よりほっとしたことを覚えています。

症状に名前がついて、お医者さんにもこの状態がしっかりと認知してもらえるのだと感じました。祖母がリウマチで苦しんでいたのを間近で見ていた為、辛い治らない病気だという認識があったのですが、その上でもほっとした気持ちの方が病気への不安よりも大きかったです。

また、祖母と同じ病気なんだ、おばあちゃんと同じなら大丈夫、という祖母への絶大な信頼の為せる不思議な安心感がありました。

(さらにいえば、「すぐに命に関わる病気じゃなかった良かった」というような気持ちもありました。)

今となれば、そこから人生が大きく変わるというか、常に共に歩む、自分の特性が大きく加わる出来事だったと感じるのですが、当時は周囲の人達はなぜそんなに心配するのだろう?と不思議に思う程、楽天的に捉えていました。

 

症状としては診断がついた頃から、坂を転がるように急激に悪化していきました。

悪化していく中では、とにかく大学の授業を休まずに受けること、実家から遠く離れた土地での一人暮らしだったので食べて寝て家事をこなすこと、「生きること」に必死で悲観的になる余裕もない日々が続きました。

 

具体的に症状を述べていくと、日々、痛いところは変わりつつも毎日平均6箇所くらいは痛みがある(指の一本を1箇所と数えれば、6箇所どころではなく無数にある)というような状態に診断後すぐになりました。

それぞれの痛みの具合はどんどん悪くなっていって、痛い箇所が減ることがなくなり増える一方になり、、、足の指、足の裏、足首、膝、手の指、手首、肩、顎、喉の骨それらの関節が激しく痛み、常に微熱というか身体が重く、熱く、だるく、ただ座っているだけでものすごく体力を消耗し疲れる。

授業を静かに聴いているだけで、ぐったりと疲れる。大学に入って好きなものを食べ続け1年で8キロ太った体重が1、2ヶ月で元どおりに痩せました。

身体全体が静かに焼かれ続けているような、自ら燃え続けているような感覚でした。

パンパンに膝が腫れ上がり、診断から3ヶ月経った頃にはすでに杖なしでは歩けないほどになっていました。膝は腫れのせいでほとんど曲がらない状態でした。(急激な腫れだったためか膝には肉割れの跡が残っています)

手押し車でゆっくりゆっくり歩いているおばあさんよりももっと遅い速度で、すり足のような足の運びで、杖を支えに何とか歩きました。

手の指はパンパンに腫れて、糸巻き状でした。

ほとんど曲がらないので炊事はとてもやりにくかったのを覚えています。

 

特に辛かったのは夜で、まず痛すぎて眠れない、寝付けない、寝返りがうてない、布団が重い、寝ついても痛みで起きてしまう。朝は朝で目が覚めると全身が強張っていて、辛い。

暗い部屋の中で痛みと向き合っている間は、痛くて痛くて、悲しくてシクシク泣いていることもよく有りました。

 

この頃治療としては、痛み止めの薬を朝晩。(ロキソニンプレドニンなどだったと思います。)治療薬として飲んでいたリウマトレックスもどんどん量が増えていき、これ以上はもう出せないという量を処方してもらっていましたが、痛み止めで痛みが和らぐ実感はありましたが、症状はどんどん悪化していきました。

 

そんな経過を辿っていた、診断からちょうど半年後を迎えた頃。

 

主治医の先生に、「飲み薬が全然効かないようなので提案するのだけど、つい数年前に日本で治験が終わった新薬があるんだけど使ってみますか?」という提案をいただきました。

 

それが生物学的製剤のレミケードでした。

 

新しい技術で開発された薬であること、重篤な副作用もあること、検査入院が必要なこと、点滴の薬で2回目の実施までは入院をして行うこと、特に2回目はショック症状が出やすいので必ず家族同伴で行うこと、効果は7割くらいの人にはあるけれど、3割くらいの人には無いこと、そして非常に高価であること。

 

それらの説明を受けて、両親と相談し比較的すぐに使うことを決断しました。

 

悪化の一途を辿りこのままでは本当に寝たきりになってしまう、車椅子になってしまう、という未来がすぐそこにみえているような状態で(その時はその瞬間を生きるのに必死で私の目線ではそこまで予想をする余裕もなかったのですが、)副作用があっても、何か方法があるのなら、、、という即決でした。

 

検査入院を終え、レミケード1回目の為に入院したのは大学病院の内科の病棟で、そこでは他の疾患で入院されている方々と同室でした。

長期入院されている方が多く、その方たちから、私と同じ治療のために来た患者さんが同じように杖をついて入院してきて、治療後は杖を使わずにスタスタと歩いて帰って行ったよ、奇跡のような薬があってうらやましい、というお話を聞きました。

それを聞いて、なんだか申し訳なく思うと同時に本当にそんな薬であったら、と期待も高まりました。

でもいくら何でも、そこまで効きはしないのではないか?3割の人は効かないとも聞いたし、あまり期待しすぎずに、、と自分を落ち着かせつつ、点滴の日になり、受け、一晩寝て起きると、その奇跡が自分の身にも起こりました。

 

身体中の腫れが、ウソのように楽になっていました。すっかり健康に戻った訳ではないですが、痛みでほとんど動けなくなっていた自分には、普通に戻ったと同じと思えるくらい腫れが引きました。

本当に杖なしで歩けました。

ほとんどパーのままになっていた手が握る形に曲げられるようになりました。

全身の痛みが、半減はしたと感じました。

 

(2度目の点滴の際は母が付き添ってくれ、アナフィラキシーショックもなく無事に終わりました。)

遺伝子組み換えの大豆は何となく怖いと思い選べるなら食べないようにする私ですが、生物学的製剤の生物がバイオテクノロジーを意味していて、遺伝子操作によって生まれた薬ということはいまいち理解することもなく、すがる思いで飛びつきました。

 

後に、この薬は金額、副作用、製造方法などの点で使い始めるかを躊躇する方もいるのだということを知るのですが、当時の自分にとっては命綱のような、これで助かるなら、、、!という本当に命を救ってもらった思いの薬でした。

ただ、迷うような情報をよく理解して知っていたとしても、当時の状況であれば使わずにはいられなかったと思います。この先に、思いもよらない副作用があったとしても、自分にはもう訪れなかっただろう自由に歩ける17年をもたらしてくれた生物学的製剤には感謝をしたいと思います。

あまりの劇的な効きに、痛みをずっと抱え、苦しんでいた祖母の時代にこの薬があれば、この薬を届けてあげられたら、、、と強く思いました。

 

ただ、これはあくまでも私個人の状況の上での感想なので、迷っている方に使用を強くすすめている訳ではありません。

こういう例もあるのだなという、あくまでも一つの例として受け止めていただけたらと思います。

 

リウマチというのは、いつ発症したのか、どのような速度で進行するのか、どんな薬が効くのか、病気の勢いやタイプも、同じ病名であっても本当に人それぞれに違うものなのだろうと身近なリウマチ患者さんを見ていても思います。

 

一例として、たくさん情報を集めたい方の一助になればと思います。

 

 

さて、ここからリウマトレックスを飲み続けながら1ヶ月に一度のレミケードを3年弱続けることになります。

 

次回はレミケードを使っていた時の感想などを書いていきたいと思います。

 

簡単に、とタイトルに付けながらまたしても長文になってしまいました。

(事実だけ述べて、心情や感想は入れなくてもいいのかとも思いましたが、書き始めるとついつい記憶が蘇ってきて書きすぎてしまいます。)

 

 

長文にお付き合いいただきありがとうございました。

 

17年間の経過を簡単に①「発症から治療開始まで」

現状の説明に入る前に、これまでどのような経過を辿ってきたのか大まかな流れを記しておきたいと思います。

 

特に始まりは、リウマチを疑う症状を持つ多くの人にとって早期発見の重要なポイントだと思うので、少し詳しく記しておきたいと思います。

 

始まりは2005年、大学の春休みで実家に帰省中に突然左肩の激痛に見舞われたことでした。

よく初期症状としてあげられることの多い「手の指のこわばり」「関節のこわばり」「関節の赤い腫れ」、そういった症状とは違う症状が自分にとってのリウマチの始まりでした。

 

左肩の激痛は(体験はないですが)例えるなら肩が外れたのではないか!?という痛みでした。

そんな激痛が全く普通に過ごしている中で突然やってきたので、これは何事かと驚いたのを覚えています。

特別運動もしていない、思い当たる運動といえば年末の窓拭きくらい。まだ19歳なのにそれでこんなに肩が痛くなることなんてあるのか?しかも数週間経ってから??と訳もわからない中、24時間続く痛み、少しでも動かすと頭が真っ白になる痛みに横たわることもできず、居間のこたつにもたれかかって気を失うように眠るという日々を数日過ごしました。

そして数日後、その痛みは嘘のように消え去りました。

一体なんだったのだろうと家族と不思議がりつつも、とにかくよかったよかったと安心をしていました。40肩ならぬ20肩なんていう物もあるのかな?という呑気な気持ちでした。

ところが、その耐えがたい痛みが定期的に訪れるようになり、そういえば前から膝も変に痛い(高校の空手部で関節炎になったためだと思い込んで軽く扱っていた)何かがおかしい、、、!と、その段階で痛みのあった膝の痛みを主訴に整形外科を受診しました。

レントゲンをとり、関節の様子を観察してもらった結果、原因はよくわからないという診断でした。(肩の事も訴えても血液検査で炎症の起こった形跡のようなものがあるのがわかるくらいという感じだったと覚えています。)

なんだかはっきりしないことに不安を感じつつ、頓服の痛み止めをもらって帰宅しました。

 

しかし、原因不明の痛みは現れては消えるを繰り返し、内科に行ってもわからず、やっぱり関節だからと整形外科にも2度行ったような覚えもあります。

そのそれぞれの時に、赤く腫れていないという状態や朝のこわばりはあるかという問診にないと答えた事、医師はリウマチを少し疑いつつもそれらの症状からリウマチではないと鑑別していたように感じました。

 

診断に対して納得しつつも、その時点で自分と母の中にはそれでもリウマチを疑う気持ちがほんの少しありました。

私は3世代同居の家で育っていて、小さい頃から祖母のリウマチはとても印象的な病気でした。元気だった大好きな祖母が身体中の痛みで一緒に遊ぶことができなくなっていったこと、それがとても寂しくて、痛そうな祖母がかわいそうで、祖母のリウマチがよくなったら一緒に遠くに出かけたい、またたくさん一緒に遊びたい、小さい頃の七夕のお願いの一つには必ずその項目が入っていました。

お嫁さんとして、祖母の生活を支えた母にも思い当たるところが大いにあったようでした。

 

(実は祖母がリウマチがあるということで、嫁いできた時にリウマチは遺伝するということを近所の人に何気なく言われたことを気に病んでいたようですが、それが結果的には早期発見につながりました。)

(ただ、間近に祖母を見ていたからこそ、典型的なリウマチの症状とは違うのではないか?だから違うのでは?という気持ちもありました。)

 

原因がわからないまま春休みが終わろうとしていた時、このまま遠くの一人暮らしの土地へ帰るのは不安だということで、総合診療科を受診しました。

そこでもよくわからないという診断がくだろうとしていたのですが、母が「祖母がリウマチだったので、違うかもしれないけれど念のためリウマチを疑って検査をしてもらえませんか?」と医師に頼んでくれました。

その時診療をしてくれた若い男性の先生は、素人の母の提案を嫌がる事も怒る事もなく、快く血液の検査項目にリウマチを確定できる項目を入れて検査をしてくださいました。

患者の不安に応えて柔軟に対応していただけて、本当にこの先生のおかげでその後の経過についても早い治療に繋げていけたのだと感謝しています。

そして、それを提案してくれた母にとても感謝しています。大人になってみて思うのは、医師に頼むことは(先生にもよりますが)とても勇気のいる事だとしみじみ感じます。

 

その結果出た診断はリウマチを確定するには至らないものの、疑いがあるというものでした。

紹介状をもらい大学へ戻ろうとしていたところ、母の職場の同僚の方の旦那さんが医師をされていて(またその当時の父の主治医でもあり)、私の通っていた大学の地域にはリウマチの名医がいるのでその先生に見てもらえるようにと紹介状の宛先を変えて改めて紹介状を出してくださいました。

 

そして春、大学の授業がスタートし少し落ち着いた5月に大学病院のその先生のもとを受診しました。その頃の症状としては、膝が痛いことと、手首が痛くなることがある、大きな関節が痛んだ原因がわからないのが怖い、、、という感じでした。(急ぐほど具合の悪いところがなかったため喉元を過ぎて痛みの恐怖が薄れていたため、受診を少し先にしてしまいました)

 

受診の結果、この数週間の間に鑑別に必要な数値が上昇しておりリウマチと判断するに至るまでになっていました。

ここから私の長いリウマチの治療が始まりました。

 

 

 

はじめまして。

はじめまして。

 

私は田舎に住む30代。19歳の春にリウマチを発症して、もうすぐ丸17年となります。

 

改めてリウマチ生活のあれこれを記録しておこうとブログを書くことにしました。

 

実は7年ほど前にもリウマチ10年目の日々を記録しようとブログを始めたことがあります。

そのブログは少しの間は続いたのですが、持ち前の三日坊主が発動して半年ほどで辞めてしまいました。

幸いに体調がよくなっていって特別リウマチに関して書くことが無くなっていったことが、ブログを書かなくなった要因のひとつでした。

 

月日が流れ、私自身生活に変化やそれに伴う体調の変化に再び見舞われました。

10年目にブログを書きはじめた時、リウマチになって長い年月が過ぎた中で発症した頃とは違う新たな苦しい気持ちが生まれたこと、でもそれを前向きに捉えて記録する中で乗り越えることができたら、同じような境遇の方がそれを目にした時に少しでも希望を持ってもらえるかもしれない、それを考えて自分もブログをその時の現状を乗り越えるための原動力にしたいと考えていました。

再び自分自身の体調に変化が起きて、自分と同じことで悩んでいる人のリアルな日常を参考にできないかと様々な体験記を探しました。

ところがリウマチという病気は幅が広く(年齢も症状も)、少し共通点がある方がたまに見つかっても、自分の探している情報とは少し違うということが多くありました。

つまり、今自分が書き始めてもその情報が参考になる人はほんの一部かもしれません。

でも中には、ちょうどそんな情報を参考にしたくて探している人がいるかもしれない。

同じ関節リウマチという病名でも様々な環境で、状況で、病状で、それぞれ100人いたら100通りの状態があるというくらいに、違うのがリウマチなのではないかと最近は感じています。

 

だからこそ、自分のパターンを記録しておくことは大切なように思いました。

体験記は多ければ多い方がきっと、探している人に届く可能性があるのだろうなと。

自分はとても知りたかったので、できるだけ書いて残しておこうと思いました。

 

以前は個人的な日記のような記録や、リウマチに関係あることもないことも雑記のように書いていました。

今回始めるブログでは、徹底してリウマチに関することのみを記録していこうと思います。

なので定期的に書く日記のようなものではなく、伝えたいことや書いておきたいことができたときに更新をする記録のようなものになると思います。

 

細く、長く、書き続けて行けたら良いなと思います。

よろしくお願いいたします。